つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

フクオ先生のレゾン・デートルのこと

中学一年生の数学は、フクオ先生という初老の先生が担当していた。

年齢を思わせる白髪まじりの頭髪に反し、背は曲がっていなかったため、長身が余計に際立っていた。分厚いメガネは四角くて、全体として定規のような先生であった。

先生はその直線的な特徴とは裏腹に、飄々としていて、身軽そうな立ち振る舞いに、やわらかな笑顔をたたえる人であった。

そしてフクオ先生は、他のお年を召した先生が大体そうであるように、授業中に雑談を挟むのが好きであった。

 

ある日の授業中、フクオ先生が微笑みながら、急にこんなことを言った。

「人は何のために生きているか分かりますか?」

質問の壮大さとは裏腹に、フクオ先生の口調は、とても些細な問いかけをするようであった。生徒の誰もが、いきなりどうしたんだと不思議に思っていたに違いない。

フクオ先生の答えはこうであった。

「私は、人は食べるために生きているのだと思います」

先生の言葉を借りれば、「生きるために食べているのではなく、食べるために生きている」。

つまりフクオ先生にとってのレゾン・デートルとは食事であった。購買のパンを無感動に流し込んでいる僕にはピンとこなかったことを覚えている。

 

「人はものを食べて、栄養をとって、それで生きているんです。でも、ある時なんだか、逆のような気がしてね。おいしいものを食べるために人間は生きているんだと。」

そしてフクオ先生は、奥さんが作るお弁当が日々と楽しみだとも言っていた。

 

大学生になって、自炊をしたり、実家のご飯のありがたさに気付いたり、友人と食事に行ったりするようになった。そうした陳腐な経験の中で、僕の中で食事がというものがそこそこ大事なものになった。購買のパンを口に押し込んでいた中学生が、おいしいレストランを友人に教えてもらったり、少し手の込んだ晩飯を作ったりするようになった。ようやく僕はフクオ先生の言葉に実感を持つようになった。

「人は食べるために生きている」という逆説的な言葉は、今ではなんとなく腑に落ちる。

 

いま、先生がどこで何をしているかは分からない。たしか、僕らの卒業と同時に退官したはずだ。しかし、教員生活を終えても、フクオ先生は相変わらず美味しいものを食べて暮らしているのではないかと思う。