つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

旅することと未来の遺品整理のこと

つらいことなんて自分だけにある話じゃないし、外を歩けばそういう人にはたくさん出会えるだろう。ありふれたことだし、もっとひどい人はたくさんいる……ということを考える

 

つらいことがあったせいで「旅にでたい」と感情的に考える、そういうときはまだいいと思う。「旅に出るしかないだろう」と、選択肢が一つしかないように冷静に錯覚しだしたあたりが最もまずいときだ。そういうときははっきり言ってどうしようもないけれど......もし酷すぎない段階であれば、自分の遺品整理を未来系でしてみたらどうだろう。普通、遺品整理は自分でするものではないけれど、人によっては、やってみると心が少し落ち着くかもしれない。

 

まず、自分の大切な物を挙げていく。ずっと使っていた時計とか、人にもらった手紙とか、使い込んだ椅子だとか。次にその品々を「自分が旅に出たら、これはあの人にあげよう」と勝手気ままに考える。例えば:

 

50年代Peugeotのコーヒーミルと黒いドリップポットはI.Rへ。大好きなアメリカの古いマグ2つはA.JとA.Kに。A.Kには黒いネコのぬいぐるみも。昔買った人物画の教本はO.Sに。真鍮削り出しのボールペンとアメリカ人アーティストが作ったマグカップはN.Aへ。陶器市で買った陶器2つをI.Mに。落書き用に使っていたノートとカリグラフィ用のペンをM.Kへ。北欧のグラス6つとブルーのマフラーを母へ。金張りの古い万年筆を父に。深い青のダッフルコートと、黒い革のバッグ、落ち着いたモスグリーンのラゲージ、チークのローテーブルをT.HとT.Yに。大事なときに必ず使うParkerのボールペンと、一番気に入ってる分厚いネイビーのアラン編みセーター、iittalaの小ぶりなグレーのグラス、それから俺が買ったいくつかのデザインとアートの本をK.Yに。自分のためには、Wirkkalaのビアグラスと、もう廃盤になった山吹色の万年筆、グレーの刺繍入りマフラー、名前入りの花のハンカチ。

 

相手がこんなものもらったら迷惑かな、なんてことは考えない。ひたすら、この人にはこれを、と考えていく。自己満足でいい。自分が長く使い、大切にしていたものを、自分の好きな人が持っていてくれるというのは、考えるだけですてきだと思いませんか。たとえそれが他人にとってがらくたみたいなものであっても。

俺は旅を経験したことがないからよく分からないけど(この文章を読んでる人もそうだと思う)、旅そのものだけでなく、自分が忘れられることが最も怖いことなのではないかと思う。だから未来の遺品整理は有用だ。疲れている人はやってみるといいと思う。大切なものと大切な人のことを考えると、少しあたたかい気持ちになる。なんだか少し心が落ち着く。俺の持ち物をみんなが持っていれば、俺が旅に出てしまっても、たまに思い出してもらえる……と、そう思い込むことができる。なんという自己愛のかたまりだろう!

まあいいじゃないですか。時は進むし、浮世はつらし。