つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

ベルーガのこと

水族館に行った。僕はベルーガの水槽が気に入った。

 
広く暗い部屋があって、そこはベルーガの水槽のためだけの部屋になっていた。大きな水槽は天窓からの光を受けて発光していて、照明の落とされた暗い空間の中にぽっかりと浮かんでいる。水の中では、2匹のベルーガが水槽の壁に沿ってひたすら回遊していた。エメラルドブルーの広い空間を、白い巨体がゆっくりと泳いでいるようすは、現実味がなく、幻覚のような景色だった。彼らは目をつぶっているときもあれば、黒く小さな瞳を僕たちに向けてくることもある。ベルーガを見たことがある人なら分かると思うのだけれど、彼らの口はまるで微笑んでいるように見えるのだ。ゆったりと泳ぐさまと、あの微笑を見ていると、2匹のベルーガがすごく高次の存在に見えてくる。人の考えていることを全て見透かしているような……。
 
こういう気持ちを前にも抱いたことがある。昔飼っていたうさぎ、彼女がじゅうたんの上でじっと座っているのを見ているときだ。前足を揃え、じっと耳をそばだてて座っているあの姿は、なぜか哲学者を思わせた。瞳を見ていると、なにかこちらに語りかけているような気がしてくる。歳をとり、衰弱していた彼女は、僕が久しぶりに実家に帰った次の日に死んだ。母は「帰ってくるのを待っていたんだね」と言った。そんな都合のいい話があるわけがないという気持ちと、そうであってほしいという気持ちが混じって、僕は母の言葉が聞こえないふりをした。
 
ベルーガはずっと水槽の中で回っている。泳いでいるところをずっとを見ていると、やがて自分が彼らを見ているのか、あるいは向こうがこちらを観察しているのかが分からなくなってくる。ついには水槽と部屋の、暗闇と明かりの、水と空気の境界が曖昧になってきて、ぼうっとしてくる。
 
祖父の棺桶に花を入れたときのことをよく覚えている。仏間の畳の上、白木の棺桶の中に横たわるおじいちゃん。あのとき、自分は長男だからと泣かないようにしていた。きょうだいの前では強くあらねばならない。でも、祖父の顔の横に花を添えたとき、思わず我慢ができなくなりそうだった。それは亡骸があまりにきれいすぎたからだ。安らかな顔で眠るおじいちゃん、まだ動けそうなのに、なぜ焼いてしまうのだろう。火の釜に入れてしまったら、本当に祖父という存在がなくなってしまう。入れ物がこんなにきれいなのにどうして中身がないのだろう。悔しいような悲しいような、途方に暮れて、理解が追いつかず、どうしてよいか分からなくて、顔を背けた。結局、僕は泣かなかった。
 
大きい方のベルーガが僕のそばを通り過ぎるとき、彼はこちらを向いて、大きなあくびをした。そんなことはないのだろうけど、何かを語りかけてくれたような気分になる。こちらを意に介さず、ひたすら水槽を泳いでいたベルーガが、やっと自分に反応を示してくれたから、僕は水族館から出ることにした。恐らくこの後もずっとずっと、2匹のベルーガは水槽の中をまわりながら泳ぎ続けるのだろう。寿命が尽きるまで、この文章を書いている今もきっと。