つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

装丁のこと

書物、言語、詩歌、文学、僕の家族は何なんらかの形で、そういったことを生業にしたり、趣味にしたり、ライフワークにしている。祖父もそうだった。やはり人の一生に言葉というものは欠かせないようである。

 

僕の家には昔から途方もない数の本があった。

玄関、リビング、トイレ、客間、書斎、浴室、和室、子供部屋、キッチン、階段、ホール、廊下、いたるところに必ず大量の本があり、だいたいの部屋には本棚があった。棚からはみ出した本は、尊大な子猫のようにソファに鎮座し、床に平積みされ建築物となり、ときに湯船の蒸気にやられ丘陵地帯のように表紙を歪ませていた。多くの読書家がそうであるように、親父の書斎もまた、部屋の4面全てが本棚になっており、そこではたえず本の新陳代謝が行われている。増えたり、捨てられたり、持っていかれたり、移動したり。周りに本があふれているものだから、子どもの頃の僕たちは、暇なとき、そばにある本をめくったり眺めていたりした。しかし悲しいことに、そんな家に育ったにも関わらず僕の読書量は人並み以下である。

 

幸運にも、大学で出会った2人の人間のおかげで、僕はブックデザインに興味が湧いていた。1人はKさんという後輩、もう1人はSさんという大先輩である。勝手に後輩だの先輩だの言って怒られそうだ。とにかく彼/彼女おかげで、影響の受けやすい僕は自分でも本のデザインをしたいなと考えていた。実際に、本を作ってみたり、ブックデザイナーの展示や講演に何度か出向いたりというまめまめしさも見せるほどであった。しかしながら、僕は依然としてデザインについては素人である。また、作る側になりきれないからと言って、見る側にもなりきれずにいた。例えば足繁く本屋に通って装丁をひたすらチェックしたりとか、デザインを批評したりとか、そういった几帳面なことができる性格ではない。

 

では苦もなくできることは何かと考えてみると、ひとつだけある。それは他人が自分のすきな本を語っているのを聞く、ということだ。自分の好きなものを語っている人というのは愛しいものである。例として、amazonで見た、ある本のレビューに気に入った文章があったから、ここに一部を省略して引用してみる。

 

「この本は古本屋さんで見つけて買いました。

中はまだ読んでいません。

そのうち読もうと思います。

きっと良い本でしょう。

でも私にはカバーの絵だけで充分です。」

 

このレビューからは、ささやかな幸せのにおいがする。古本屋で買ったのにAmazonのレビューを書くというのも不思議な話ですが、まあいいじゃないですか。

この文章の、「きっと良い本でしょう。」という一文がとてもいいのである。

 

きれいな山のあるところにはきれいな湖がある。豊かな山の雪がほぐれて水となり、染み込み、土や石で濾されて、湖に湧き出す。この山と湖との関係は、そのまま本の装丁と書物の中身にも言えるように思う。なぜなら装丁は本の中身を元にデザインされるからだ。表紙、見返し、花布、栞、本の一つひとつの要素は、その本の内容をほのめかすような、暗示するようなものである。だからカバーを見て「きっと良い本」だと気に入ったのならば、その人にとって本の中身も少なからず波長が合うと思う。だからこの人は、中身を読む前から「きっと良い本」だと感じているのだ。

装丁をする人にとっては、本がたくさん売れることが大事で、ビジネスだから数字を気にしなければいけない。それが商業デザインだ。多くの人の手に取られ、買われることは、クライアントのために必要な成果だと思う。でもその中で、万人に好かれなくとも、カバーがいいと大いに気に入ってもらえる人が少しいることも、すごくうれしいことだという気がする。数字とか売上ではない部分......いわばデザインと工芸とアートが混ざったような、そういう側面があることが、装丁のデザインのいいところだ。

気に入っている本を人にあげるということを、僕は迷惑かなと思いつつ、ごくごく稀にやってしまう。好きな本を手放して、好きな人にあげる。手元に置いておきたい本ほどそうしたくなる。それというのも、中身だけでなくて、装丁もまるごと、物として気にいっているからだ。本のデザインをしてくれてる人、ありがとうございます。