つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

白ごまおにぎりのこと

幼稚園から小学校にかけて、僕の朝食はおにぎりだと決まっていた。

母がにぎるおにぎりは毎朝ちがう具だった。塩おにぎりの時もあれば、塩昆布が混ぜ込まれていたり、鮭が入っていたり、たまに遊び心でソーセージがつきささっていたりして、僕はそれがとても楽しみだった。

 

ある日、母方のおばあちゃんに会いに行ったとき、お腹が減っていた僕を見て、おばあちゃんが「何か食べるか?」と聞いてきた。

おにぎりが大好きだった僕はすかさず、おにぎりをつくってくれとせがんだ。おばあちゃんはお母さんのお母さんだから、きっとおにぎりもお母さんよりすごいものが出てくるだろうと、単純に考えていたのだ。僕は、おにぎりができるのをわくわくして待っていた。

おばあちゃんがつくってくれたのは白ごまおにぎりだった。

おにぎりは俵のかたちをしていて、それは三角おにぎりを食べていた僕にとって見慣れないものだった。ふたくちで一つ食べられるサイズの小さなおにぎり。そのきらきらの白いごはんの中に、擂られたごまが混ぜ込まれている。あわい色合いだ。おにぎりはまるで米俵のように積まれ、食べられるのを待っていた。

 

僕はおにぎりをあっという間に間食した。とにかくおいしいのだ。

 パリっとした海苔のあとに、ふわふわとしたお米の食感。噛んでいると海苔の香りの後からごまの香ばしさがやってくる。擂りきれていないごまがぱちっとはじける時の風味がいとおしい。絶妙な塩かげんは、噛んでいるうちに弱まっていき、お米のあまみが口の中にひろがる。

 

僕はいまでも不思議に思う。お米もごまも海苔も、特別なものは使っていないのに、どうして母親が作るおにぎりよりおばあちゃんが作った方がおいしく感じるのだろうか。

子供のころ僕が考えていた「お母さんのお母さんはすごい」という単純なことが、やっぱりその理由なんじゃないだろうか。