場所と飲/喫みもののこと
知り合いの中国人から面白いことを聞いた。曰く、家から数駅の場所に遊園地があるのだが、そこの年間パスポートを持っているという。よほどその遊園地が好きなのかと聞くと、特に思い入れがあるわけではないらしい。
彼が遊園地に赴くタイミングは、観光にきた海外の友人を案内するときと、それからもうひとつ、なんでもない日に行くのだという。彼はふと思い立つと、年間パスポートを使って遊園地に行く。そしてそこで煙草をいっぷく吸う。大きな観覧車が静かに深くきしむ音や、遠くのジェットコースターから広がる歓声を聞きながらゆっくり煙を吐き出し、一本の煙草が終わると、何のアトラクションにも乗らずに帰るのだという。特別な場所で、特別なことをせず、ただ慣れ親しんだ味を確かめて、帰る。
大学を出て行く間近、僕は親しい友人と2人で、夜な夜な誰もいない大学へ、コーヒーを飲みに出かけていた。たんに時間を持て余していたのか、数年間世話になった学び舎への郷愁か、単に突飛なことをしたかったのか……とにかくその不思議な催しを数回やった。何しろキャンパスが広大だったから、場所には困らない。暗い庭のベンチだとか、夜の芝生だとか、ひっそりと寝静まった学生宿舎の広場、光を吸い込む真っ黒な池のほとり……そういったところにいそいそと繰り出す。そして友人が持ってくる登山用具で湯を沸かして、何でもない会話を交わしながらコーヒーを飲む。
コーヒー自体がすごくおいしいわけではなかったのだけれど、なんだかあのときの湿った空気だとか、虫の鳴き声や、押し黙っている木々が印象に残っている。
よく、山頂で食べるカップラーメンがおいしいという。いつも食べているカップラーメンも、登山の疲れ、山頂の景色と清冽な空気の中では、最高の食事になる。これは、場所が食べ物を高めている例だと思う。特別な場所では、なんでもない食べ物もご馳走になる。
でも、その逆もあるのではないか。なんの変哲もない、いつもの味、平凡で慣れ親しんだものによって、その場所自体の雰囲気や魅力を強める、そんなことが。
いつもと違う場所で、いつもの味を楽しむ。遊園地の一服も、夜のコーヒーも、そういうものではないかと思った。
みそ汁のこと
みそ汁からは、その人の家庭が見えてくる。本当に、家によってみそ汁のバリエーションは様々だ。ある家庭で普通だと思っていた具材が、あっちの家庭では珍しかったり、ある人のこだわりが、別の人には全く理解されなかったり、そういうことが往々にしてあるものである。
数年前だったか、なめこのみそ汁を作ってもらったとき、なめこと一緒に白白としたもやしが入っていて面食らった。「なんでもやしなの?」と聞くと、昔からなめこ汁にはもやしだったの、と言う。食べてみると、やわらかななめこと、子気味良い音を立てるもやしの食感が正反対で、おいしい。僕の中では、なめこともやしを組み合わせる発想がなかったから、楽しい発見であった。
みそ汁のいいところは、好きな物を適当にほうりこんでも、それを許容してくれる、度量の大きさにあると思う。みそ汁はおよそなんでも入る。わかめ、しめじ、キャベツ、じゃがいも、とろろ昆布、にんじん、さといも、豆腐、玉ねぎ、ふ、しいたけ、油揚げ、しじみ、あさり、大根、なす、ねぎ、伊勢海老、かぼちゃ、さやえんどう、れんこん......きりがない。人種のサラダボウルなんていう言葉があったけれど、サラダボウルをみそ汁に変えても成り立つのではないかと思う。
この前作ったみそ汁は、好きなものだけを入れたみそ汁だった。
朝。だしをとる。味噌をとかす。みょうがを薄く切る。三つ葉をちぎる。この紫と緑とを、ひょいとみそ汁に放り込んで、香りとシャキシャキ感が飛ばないうちに火をとめる。お椀についだら、輪切りにしたすだちを2,3枚かさねて、そっと水面に置く。
これは、たくさんの具をもぐもぐと食べて楽しむみそ汁というより、香りを楽しむみそ汁である。湯気とともに鼻腔にしっとり着地するあの香り。口に含むと、まずゆずの酸味がくる。次いで、みょうがのすがすがしい刺激、3番手は三つ葉の上品な歯触り。後味で再びゆずの爽やかさが余韻を残す。みょうが、三つ葉、すだち。この3つのどれかが欠けてもいけないし、ここに何か足すのもいけない気がする。特に、寒い朝の、世界がしんとしていて、肌の表面の感覚がいつもより鋭敏になっているようなときに、こういう味噌汁を飲むと、体の中のきゅっと固結びされている部分が解きほぐれる。簡単だから、作ってみてください。
庭の水やりのこと
夏休みは水やりの日々。子どもの頃の夏休みは、家でだらだら過ごしていると、さまざまな「おてつだい」が降ってきて、それをイヤイヤこなしていた。朝、庭の植物に水やりをするのも、おてつだいのひとつであった。
とぐろを巻いたホースを引っぱり出し、蛇口をひねって水をまく。蝉の鳴き声が降り注ぐ中、その合間をぬって、水の粒がゴムのホースから押し出され、天を目指したかと思うと、ふと力を失って、地面へと落ちていき、葉や土や木に当たって弾ける。葉っぱと水滴とがやわらかく衝突する、その小さな音が地面に染みていくのが、小さなサンダルを履いた足裏から伝わって分かる。幾重にも重なった青い芝生の一本いっぽんが、少し重そうに水の玉を持ち上げる。蟻が列を崩す、バッタが飛ぶ、トカゲがおどろいて草陰に引っ込む。たまに蝶々がやってきて、僕が撒いた水を飲んでいる。しばらくするとどこかへ飛んで行ってしまうのを見ると、喫茶店の店主になった気分になった。
夏の日差しの中で散水していると、陽光と水との角度がうまく合うところで、必ず小さな虹を出すことができた。だから、庭の水やりをしているとき、虹は偶然に見る幸運な現象ではなかった。夏の昼間では、日は無限に満ちていて、僕は自由に水を操れたから、虹は「隠れているだけで必ずどこかにあるもの」だった。僕はただ、小さな虹のいる位置を探して、いろんな方向に水を撒くだけでいい。夏の日の僕にとっては、毎日庭で会う昆虫や蝉の声と同じように、虹はありふれたものになっていた。けれど8月31日が終わって小学校が始まると、おてつだいの数も減り、そんなこともあっというまに忘れてしまう。
曇りの日でもない限り、僕が水のベールを日だまりの中に広げれば、日光はいつでもこなごなに砕け散って、たちまち7色に分解された。さながら魔法使いのような、小学生の夏。
久しく忘れているものたちのこと
車がすごいスピードで走っているのに、ずうっとついてくる月
はなむけの酒
この散文は11月の寒い夜に書き始められた。なんとはなしに書こうかと思った。3月に書けばよいのに、年の暮れから書き始めているのは酔狂である。
ある事柄について語るとき、中心を掴むよりも、周縁をなぞることで、そのものの性質が浮かび上がる、そういうときがあると思う。この文章では、酒を鑿とし、人を彫り出せたらいいなと、そう思って、4人の友人について書く。
まずは1人目の友人である。彼はひどく茶を飲む、水を飲む。彼といえば果実酒である。男はこれをがぶがぶと飲む。目が据わっている。妙な頼もしさがある。グラスよりも五郎八茶碗の方がいいのではと思うくらいである。お供は2リッターのペットボトル茶で、これを幾本も、難なく飲み干す。空になった老酒の瓶をいくつもそばへ転がしている中華の豪傑のようだ。そんな大胆な飲みっぷりの男であるが、しかし豪放磊落というよりもむしろ、黙々と、訥々と大陸中の酒精を胃へ流し込むような、そんな朴訥とした人である。僕は彼に、大きな黒曜石の鏃のような印象を持つことがある。大胆と言おうか、荒削りと言おうか、尖っているようで角がとれている、しかし確かに尖っている……そういった共存が彼の良さと悪さになっていて、それが彼の描く絵にも魅力として現れているように思う。
次に2人目である。彼は酒に強い方ではない。あれだけ長く共に過ごし、結局、彼が特段に好きな酒というのが分からずじまいである。彼に結びつく酒は「アプフェルフュラー」というカクテルただひとつだ。スクリュードライバーを作ると言ってなぜかアップルジュースを購入し、この身勝手なカクテルをでっち上げた。しかし調べてみると、これはウォッカアップルと全く同じ材料である。ただひとつ違うのは適当さ・杜撰さであり、それはこの「アプフェルフュラー」のレシピにも表れている。つまりそれは「ウォッカ:適量・アップルジュース:適量」という怠惰だ。彼はその物腰とは裏腹に、自分の考えややり方について頑強な一面を持つ男である。しかし一方で興味のないことは極端に適当に、感覚的になる傾向もあった。そう考えると彼らしいカクテルである。それはこのカクテルの長所でもあり、彼の長所でもある。酒宴が深まると、最後の方では、並々と注がれたウォッカに一滴のアップルジュース、というおかしな配分のカクテルが、蛍光灯の光を透かしながら汗をかいている。
3人目の朋友である。フランスのサロン通いのような教養を持ち合わせつつ、六畳一間で懊悩する苦学生のような獣っぽさを持つ男である。間違いなく彼は人物だ。彼からは、アブサンと、言語、ピアノ、宗教のイメージがふつふつと湧く。彼は考える能力が幾分、人よりも働きすぎる人間であった。頭を雑巾のように力一杯絞り、一滴ずつ思考を抽出する人間もいれば、脳みそが常に水を吸いすぎた海綿のようになっていて、ぼたぼたと勝手に思考が滴り落ちてくる人間もいる。彼は間違いなく後者の型だ。僕は心が疲れきっていた時に、彼の膨大な引き出しに何度か助けられた。無意識にどこまでも思索する男である。そういう人間には、何か麻痺させる役割として、度数の強い酒が必要になるのではないかと勝手に考えていた。酒は、体にまとわりついた智慧や知識を剥がして生物に戻してくれる。
4人目である。彼は時期ではないが、一緒に書いておく必要がある。アルコールに惚れ込む人間は多々いるが、彼はアルコールの方から見初められた気配がある。気づかいができすぎるほどできる男であるが、ある一定の距離感を保つことを忘れぬ。それは酒に対しても同じ姿勢であるように思う。そういった態度も含めて、なぜか分からないけど僕は常々、彼の人間性とか、言葉選びのセンスとか、そういったものに対して強い憧れがあった。この男は種々様々な酒を飲むし、うまい酒に惚ける態度も、まずい酒の愉しみ方も知っている。特にビールを好んで飲んでいるのだが、彼と酒について書こうとして、なぜかふと、トライアングルを思い出した。彼がこの酒を買って飲んでいたのはごくごく短い間であったが、当時アルコールへの耐性のなかった僕にとって、度数の高いものを飲むことはやたらと大人に見えたものである。黒瓶に転写された黄色い三角形のロゴマークが、ほの暗い学生宿舎の間接照明にぼうと浮き上がる光景が妙に焼きついていて、それゆえこの酒が記憶の隅からこぼれ落ちてきたのだろう。
この何年か……思っていたより長かったけれど、過ぎてしまうと短かった何年かを思い返してみる。
花見でビールを注ぎ込み、何もない日も集まり果実酒をつぎ入れ、つまみを作りながら空き缶を机に並べ立て、夏の湿った熱気と冷えた焼酎をがぶりと呑み干し、旅先の港町で刺身を放り込みながらつららのように清冽な日本酒をちくりとやって、麦酒を片手に夜の浜辺へ繰り出し、アイリッシュパブで眠い目をこすりながら真価の分からぬブランデーを舌でつつき、冬は床の冷気に耐えながら狭いキッチンでワインをあたため、東屋で生ぬるい春風と草木の匂いを肺に溜めながら飲んでみたり、ウイスキーを持ち寄り氷が溶けるのを怠惰な目で眺め、ジンを様々なものと混ぜ合わせてみる実験を、大型スーパーの安すぎるビールに舌鼓を、適当なカクテルを作って喧々諤々、宵闇の中アルコールを手に入れるべくコンビニに駆け込み夜道を転がり身に覚えのない傷をつけ、誰かの土産を貪りながらやはり誰かの土産の酒を飲み、朝と夜の狭間も・週末と週明けの境目も・月の変わり目・季節の継ぎ目・大晦日と元旦の境界も・乗り越え乗り越えやはり酒の栓を開けていた。馥郁としたモラトリアムの香り(そして延長)、泥臭く格好のつかない生活、大きな夢と恥ずかしい妄想、お手軽な絶望と何倍にも希釈された絶望、ささやかな嫉妬と大きな賞賛、長いトンネルと真贋の分からぬ孤独、桃色の思い出と灰色の脳みそ、大きなキャンパスに小さな体、なんと不思議な生活だったろうと思う。
冬は隠れ、コートとセーターがクローゼットに押し込まれ、勝手に年度のスタートラインを押し付けられた4月と春とが、またみんなに平等に巡ってくる。普段は忘れ去られ、埃のかぶったたくさんの言葉たち、つまりは「新しい門出」、「羽ばたく」、「明日」、「切り開く」、「未来」、そういったぴかぴかしたメッキみたいなものが、全国津々浦々290万人の学生に対して、苦々しさと胃腸炎と寂しさと引っ越しと市役所での手続きと精神的身体的暖かさと数万の手痛い出費と郷愁と1mgほどの高揚感を無理やり押し付けてくる。こうやってつらつらと書いては思い出し、思い出しては書いていると、色んな人のことを思い出して感傷に浸ってしまう。互いに摩滅してしまうほど一緒の時間を過ごした何人かの同級生と、たくさんのことを教えてくれた大切な後輩たちが、住み慣れた土地を出てゆく。何はともあれ3月の終わりは「別れと出会いの季節」であり「旅立ちを祝う」すばらしい時なのだ。
みんな卒業おめでとう。
カセットテープのこと
「テープに吹き込む」って考えてみると不思議な表現だ。テープに耳があって、そこに語りかけるよう。
うさぎのかじりあとのこと
実家に帰ると、ふと椅子の上に置いてあるクロエのバッグが目についた。経年変化で革の色は濃くなり、デザインも今風ではないから、ごく古いものだろう。そのバッグに一箇所、七宝焼きのような青い円形の装飾が付けられている。聞けば、うさぎにバッグをかじられてしまったため、穴を隠そうと青いバッジを付けたという。