つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

庭の水やりのこと

夏休みは水やりの日々。子どもの頃の夏休みは、家でだらだら過ごしていると、さまざまな「おてつだい」が降ってきて、それをイヤイヤこなしていた。朝、庭の植物に水やりをするのも、おてつだいのひとつであった。

 

とぐろを巻いたホースを引っぱり出し、蛇口をひねって水をまく。蝉の鳴き声が降り注ぐ中、その合間をぬって、水の粒がゴムのホースから押し出され、天を目指したかと思うと、ふと力を失って、地面へと落ちていき、葉や土や木に当たって弾ける。葉っぱと水滴とがやわらかく衝突する、その小さな音が地面に染みていくのが、小さなサンダルを履いた足裏から伝わって分かる。幾重にも重なった青い芝生の一本いっぽんが、少し重そうに水の玉を持ち上げる。蟻が列を崩す、バッタが飛ぶ、トカゲがおどろいて草陰に引っ込む。たまに蝶々がやってきて、僕が撒いた水を飲んでいる。しばらくするとどこかへ飛んで行ってしまうのを見ると、喫茶店の店主になった気分になった。

 

夏の日差しの中で散水していると、陽光と水との角度がうまく合うところで、必ず小さな虹を出すことができた。だから、庭の水やりをしているとき、虹は偶然に見る幸運な現象ではなかった。夏の昼間では、日は無限に満ちていて、僕は自由に水を操れたから、虹は「隠れているだけで必ずどこかにあるもの」だった。僕はただ、小さな虹のいる位置を探して、いろんな方向に水を撒くだけでいい。夏の日の僕にとっては、毎日庭で会う昆虫や蝉の声と同じように、虹はありふれたものになっていた。けれど8月31日が終わって小学校が始まると、おてつだいの数も減り、そんなこともあっというまに忘れてしまう。

 

曇りの日でもない限り、僕が水のベールを日だまりの中に広げれば、日光はいつでもこなごなに砕け散って、たちまち7色に分解された。さながら魔法使いのような、小学生の夏。