つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

うさぎのかじりあとのこと

実家に帰ると、ふと椅子の上に置いてあるクロエのバッグが目についた。経年変化で革の色は濃くなり、デザインも今風ではないから、ごく古いものだろう。そのバッグに一箇所、七宝焼きのような青い円形の装飾が付けられている。聞けば、うさぎにバッグをかじられてしまったため、穴を隠そうと青いバッジを付けたという。

 
昔、実家でうさぎを飼っていたことがあった。母の知人からお願いされて一時的に預かるつもりが、家族の溺愛ぶりから、結局そのうさぎはずっと預かることとなり、リビングでぬくぬくと生活する彼女は、ついに我が家で一生を終えた。名前を呼べば近寄ってくるし、撫でて欲しさにおでこを擦り付けてきたり、喜んでいるときは高く跳ねたりと、とにかく愛らしいという言葉がぴたりとはまる。小学校の飼育小屋で見た名も出どころも知らぬ種々のうさぎとは、全く違う印象や思い出を与えてもらった。
 
実家にいると、部屋の中で、ふと、うさぎのかじったあとを見つけることがある。スピーカーのケーブル、革のバッグ、木製のマガジンラック、畳の一部、僕の社会の教科書と理科のノート。そういうのを見つけると、ふいにうさぎのことを思い出す。生きた証なんていう陳腐でおおげさな言葉があるけれど、それに近いのかもしれない。ノートの端は半円形に千切られている。マガジンラックの角は小さく欠けて繊維が見えている。あのときうさぎが元気に、ときに一心不乱に、ときに楽しげに、ときにおいしそうにかじっていた光景としぐさとが、ぐっと凝縮されて、彼女の小さな口の大きさほどまで縮み、それがかじられた物体の、今は無くなってしまった空白や欠けや割れや穴の部分に残っている。「ない」ことで確かに「あった」ことが証明されている。それはすごく大切なものだと思う。