つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

漁師さんの焼けた手の白銀のコケラのこと

体験漁業というものに参加した。

体験といっても、別に魚を獲るわけではなくて、定員15名ほどの漁船に乗り、漁師さんが漁をするのを40分ほど見るというものだ。

 

漁船を少し近くの海まで出して、猟師さんが網を海に投げ込む。

底びき網漁というのだろうか、網を投げ込んで円形に船を周遊させ、それから網を引き上げる。

その体験漁業では、獲ったしらすを踊り食いするのだが、今年はしらすの成長が早いらしく「にぼしサイズだから食べられないな」とおじいちゃんの漁師が笑っていた。

 

引き上げられた網にはしらすがこれでもかというぐらい入っていて、参加者はみんな驚いていた。しかし僕はそれ以上に、しらすが引き上げられた海に見入っていた。

網で引き上げられたしらすのウロコが剥がれ落ちて、それはそれはすごい量のウロコが、船の横に散らばり、きらきらとゆらめいているのだ。小指の先より少し小さいくらいの粒。白や水色やピンクに輝く光の玉が、暗い暗いコバルトブルーの海にぶちまけられている。うろこは波に揉まれてひらひらと回ったりゆらゆらと動いたりして静かに沈んでいく。

 

漁港に戻ってから、漁師さんが獲れたしらすを両手ですくって、ビニール袋に入れて参加者に分けてくれた。

11月初旬、カラカラした冷たい風と日差しが濡れた漁師さんの手を乾かす。

すると、その日焼けた茶色い手が、きらきらと輝きはじめる。

手に貼り付いたしらすのウロコが、乾燥して、太陽の光をぴかぴか反射しているのだ。僕はさくらの花びらが鼻にはりつく春の光景を思い出した。

よくみると船着き場のあたりは乾いたウロコのじゅうたんになっていた。

輝く石を、とても切れ味の良いナイフで薄く薄くスライスしたような、透明感のある白銀色の切片がアスファルトの上で光っている。