つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

紙箱の水槽のこと

男は久しぶりに実家に帰り、部屋の整理などする。部屋の掃除というのは、古書店で気になっていた本を偶然見つけるような驚きと楽しさをもって、懐かしいものとたくさん再会するものだ。彼がその日見つけたのは黒い紙箱だった。

 
カーテンを閉め切った少し薄暗い部屋の中、小ぶりな箱を手の中でもてあそんでみる。小さなカーテンの隙間から、定規のような愚直さをもって差し込む陽光が、静かに漂うほこりを光らせていた。手の中に納まった墨色の紙箱には、中央にAlfred Dunhillとロゴが押されている。うっすらと色褪せたその文字には、揮発してわずかばかりになった威厳と、長い月日を経て醸成されたある種のささやかさ、遠慮のようなものがあった。名刺入れでも入っていたのであろう小柄なこの紙器に、男は強烈な懐かしさを覚えた。普通の箱だったら見向きもしなかったと思うのだけれど、この箱には右上に穴が開けられている。そしてその穴には、およそダンヒルとは相容れないであろう白いビニール紐が通され、その不調和がなんともいえないかわいらしさを生んでいた。彼はこの穴とビニール紐に見覚えがあった。
 
開けてみると、箱の中はからっぽである。しかしそこには魚がいた。彼が子供の時分、雑誌から切り抜いた魚のイラストを、箱の底に何匹も貼り付けていたのである。色とりどりの魚が9cm×12cmの箱で泳いでいて、ちょっとした水槽のようになっていた。まだ心の中に「図画工作」という言葉が特別な響きを持って存在していた頃だ。魚を貼り付けた水糊の跡だろうか、ところどころが薄氷を張られたようにてかてか光っている。水槽の底にあたる部分には、緑と茶色のサインペンで、子供特有の、がたがたした力強い筆致で描かれた海藻や岩が波に揺られていた。黒く上品なダンヒルの化粧箱の中に、外側からは想像できなかった拙い水槽が入っているこの不調和に、愛らしさを感じた。
 
あの穴とビニール紐は、箱と蓋とが別々にならないように通されていたものだった。外見からは想像できないあのかわいらしい魚たち。蓋がなくなったら、箱を開けた時の驚きも消えてしまう。だから、この水槽にとって蓋はとても大切な存在だ。蓋をなくさないようにと、母か父が紐を通しておいてくれたのだろう。子供の頃の彼は、箱を開けてその小さな水槽を眺めては喜んでいたに違いない。
 
しゃらしゃらとしたビニール紐の感覚が指をなでる。少しくすぐったいような気がする。蓋を閉めている間も魚は変わらずそこにいるのだろうか?蓋を開けてみる。果たして魚はそこにいる。また蓋を閉める。再び開けてみる。やはり魚は泳いでいる。男が大人になるまでのこの十数年間、やはり魚は泳ぎ続けていたのだろう。彼は水槽をデスクの引き出しにしまった。部屋はしんとしている。部屋のほこりはやはり静かに漂って、小さいながらもきらきらと太陽の光をはねっかえしている。水換えも餌やりもしなくていい、僕のささやかな水槽であった。