つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

地下鉄とテレポートのこと

「一駅くらい歩いたらいいじゃないかっていうの、あんまり得意じゃないですね」と、後輩のヨーコさんは言った。大学2年のころ、僕はちょっとした課外活動を行う授業を履修していて、彼女とはグループを組むことになって知り合ったのだった。その日はミーティングのために集まったものの、遅刻してくる同じメンバーの院生を待つはめになり、僕たちは他愛もない話をしていた。よく覚えている、そのときの議題は「方向音痴について」だった。

僕は恐ろしいまでの方向音痴であり、道を覚えることと地図を読むことが苦手で、慣れてない土地であればどこであろうと迷子になれる。そんな人間にとって「目的地まで一駅だから歩く」というのは避けるべきだ。彼女も少なからずそういう節があるのか......あるいは、方向音痴の僕に話を合わせてくれていたのだと思う。いちおう、先輩だし。

 

方向音痴にとって電車は信頼できる。電車自身が迷うなんてことはないし(あったら困りますよね)、たとえ知らない土地に行くとしても、降りた駅を基点にして目的地を目指すことができる。西口から出て右に歩いて......という具合に。電車万歳だ。

 

あるとき、地下鉄に乗っていて、これはちょっとだけテレポートに似てるな......という考えがふと頭をよぎった。

地下鉄に乗る時は、まず地下に潜り、電車に揺られ、目的の駅に着いたらまた地上に出る、という流れだ。気がつくと全く別の町に来ている。これが地下鉄だ。

普通の電車はそうではない。電車の車窓からは、景色の変化が常に見えているから、「移動している」実感がある。例えば、埼玉の中心部なんかから電車に乗って西へ行くと、だんだんと高いビルが消え、田畑があらわれ始める。「ああ、郊外にやってきたんだな」という実感が湧く。しかし地下鉄は移動中の風景がなく、出発地と到着地の景色が断絶されている。過程がない。電車はグラデーションのように変化していくけれど、地下鉄はぶつ切りだ。だからちょっぴりテレポートみたいだと思う。そう考えてみると......僕はテレポートで移動したり、テレポートでデートしたりしてるわけだ。“瞬間”移動ではないけれど。