つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

ユーコさんのことと書道のこと

大学3年のときだっただろうか。ユーコさんという女性と知り合った。彼女は僕の2つ下の後輩で、書道を学んでいた。聞けば、高校時代から書を勉強していたという。

 

彼女が新潟出身だと聞いたとき、彼女の白い肌と華奢な体に、その出身地はぴったりだなと、ひとり腑に落ちていた。そこに一度も訪れたことの無い僕にとって、新潟はしんと静まり返った白い雪景色のイメージしかなかった。

 

僕は小学校の頃、字が上手くなりたいと強く思っていた時期があって、習字をやっている人に憧れを感じていた。飲み会でユーコさんと一緒になったとき、僕はそういった憧れと好奇心から、とにかく色々な質問をぶつけた。中国の書家についてだとか、好きな詩歌はなにかとか、書体や墨の種類についてだとか。

 

友人の家を会場にして何人かで飲んでいたので、筆ペンとコピー用紙を持ち出してきて、自分の名前を書いてもらったり、いくつかの書体を書いてもらった。いつしか飲み会は、まるで書道教室のようになっていた。

 

少し灯りを落とした6畳の部屋で、彼女の手は白魚のように瑞々しく紙の上を泳ぐ。一本いっぽんの筆運びに見とれていると、いつの間にか字が形を成している。

 

「とめ」や「はね」を書くときは、ぐっと紙を押さえたり、すっと筆が流れたりと、書く人の動き・意思のようなものが感ぜられる。しかし、次の画へ移るときの、あの筆が紙から離れる間は、その動きや意思のようなものがないように見える。画から画へのストロークがあまりにも自然すぎて、まるで筆が勝手に動いているようなのである。全く見ていて飽きがこない。

 

何枚か紙を書き潰してから、何気なく彼女が言ったことが、酔いの回った頭に不思議と残っている。

「上手いけれど書を始めたばかり、という人は、ただ筆で紙を“撫でる”みたいなんです。私が好きなのは、前の字の流れを受けて、筆と墨が紙に“刺さる”瞬間なんです。」

なるほど確かに、彼女の筆の動きの、あのしなやかな強さには、「刺さる」という言葉がふさわしい気がする。「刺す」ではなく「刺さる」なのだ。

そして、「穿つ」でも「突く」でも「貫く」でもないところに言葉の妙があり、彼女の書に対する美学がある。