つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

グラウンドの貝殻のこと

小学校の体育がきらいだった。ドッジボールではボールをキャッチできない、50m走も遅い、サッカーではゴールキーパーをやらされる、典型的な運動ができない小学生だったからだ。

 

だから、小学校の体育を思い出すとき、嫌いな運動のことはあまり思い出せず、体育座りをして先生の話を聞いているときのことがよく頭に浮かんでくる。

 

イメージの中の僕は、太陽にじりじり焼かれたグラウンドに座っていて、地面に落ちている少し小さな小石を見つめながら、先生の話に耳を傾けている。今日は逆上がりに挑戦します。とかなんとか。

 

この前も、何かの拍子に、ふと小学校の体育のこと、グラウンドのことを思い出した。そのときに一緒に引っ張られてきた記憶は「貝殻」だった。

 

あれが本当に貝殻だったのか、それとも別の何かだったのかはよく分からないが、僕はグラウンドでよく貝殻(あるいはその破片)を見つけていた。

 

大抵、それは白くて、とても小さい。2〜4mmほどのかけらだ。破片は薄くて、微妙に曲線がついている。僕は根拠もなくそれを貝殻だと思っていた。そして貝殻がなぜここにあるのかを考えていた。

 

小学校のときの僕の考えはこうだった。昔ここは海だったのではないか、だからそのときの貝殻が残っているのではないか。今考えると、学校は全く海から遠かったし、埋め立て地に学校を建てたわけでもなかったから、それはありえない話なのだが。

 

しかし、小学校の頃の僕はこの考えがとても気に入っていた。

「むかし、グラウンドは海だった。」

そう考えると、きらいなドッチボール、長い先生の話、皮膚を焼く太陽のうっとうしさも、一瞬だけ忘れることができた。僕らが走り回っている地面は実は海底で、マンボウやサメが縦横無尽に泳ぎ回っていたのだ。そう思うと、灼けた地面の上で、二本足を使ってボールを追いかけているのが何となくばからしく思えてくる。

 

むかし、グラウンドは海だった。

そうだったらよかった。ドッジボールもしなくていい。

しかし僕はプールの成績も悪く、泳ぎもからきしだめなのであった。