つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

祖父のこと

夏が来て、祖父の一回忌をふと思い出す。

 

仏壇の前で親戚が喋り、飲み食いする中、僕と弟はどうにもその場に疲れてしまい、離れに移動した。

そして何の気はなしに、二人で祖父の寝室へ入った。

 

父方の祖父の家はあまり訪れないので、寝室にも滅多に入ったことがない。喧噪な宴会の声は離れに届かず、部屋はしんと静かだった。

僕と弟はふしぎと言葉少なになった。

 

空のベッドを見ると、生前の祖父の顔が思い出される。最後に会ったときは、一日のほとんどを眠って過ごしていて、話をすることができなかった。叔父曰く、長い長い長い時間寝て、突然起きて元気そうに歩き回る、しばらくするとまた横たわってしまう、と。

 

ふと本棚にある背表紙のない本が目にとまり、開いてみる。滑らかな、白い繊維質の紙を紐で束ねてある、簡素な自家製のノートであった。中には筆で書かれた文字たちが踊っている。

 

「どうやら詩集らしい」、と僕と弟のどちらかが言った。ページをめくると、祖父が書いた短歌だか俳句だかが一ページに一句書かれている。

推敲用のノートらしく、似たような句がたくさんあった。

 

「達筆すぎて読めないな」と弟が言う。

なんとか読める句を探す。

数ページに渡って、同じ歌い出しで始まる句があった。その歌い出しはこうだ。「背を丸め、」

 

ページをめくりながら、祖父の推敲を辿る。

どうにも祖父はこの「背を丸め」という表現が気に入っていたらしい。しかし、背を丸めるというのは、なにか縮こまっているような、後ろ向きなニュアンスを感じる。

その後もいくつか他の句を眺め、それからノートを本棚に戻した。

 

寝室を出ると、廊下から田んぼが見渡せる。青田が風に吹かれている。その時ふと、米を植える農家の姿が頭に浮かんだ。そういえば、田植えの時は「背を丸め」ている。祖父は農家だ。

 

地をしっかりと踏みつけ、背を丸めて、苗を植える、そう考えると全く縮こまっているようなニュアンスはない。しゃがれ声で笑う祖父の持つ、独特の力強さが、広い広い田んぼに重なって思い出される。

 

存外、「背を丸め」は良い表現じゃないか。

 

今年の夏は三回忌だ。