「一駅くらい歩いたらいいじゃないかっていうの、あんまり得意じゃないですね」と、後輩のヨーコさんは言った。大学2年のころ、僕はちょっとした課外活動を行う授業を履修していて、彼女とはグループを組むことになって知り合ったのだった。その日はミーティ…
忘れがたいこと。 ・子どものとき、母親のゆったりしたワンピースの中にもぐったときのにおい ・瓦礫撤去のボランティアで行った被災地のにおい ・おじいちゃんのワイシャツにしみ込んだタバコのにおい ・小学校でマラソンをしたときの脇腹の痛みと口の中の…
大学の友人たちは、ずっと付き合っていたいと思う人ばかり。マツモトくんもそのひとりだ。 大学1年生のとき、共通の友人であるMに連れられ、彼の家を訪れたのが最初の出会いだ。マツモトくんの根城は木造2階建てのボロアパート。部屋にはどこから引っ張って…
日付が変わった。 悲しみは海ではないからすっかり飲み干せる Горе не море, выпьешь до дна. こういうことわざがロシアにあるらしい。たわむれにロシアのことわざを調べていて、偶然に知った。彼らはヴォトカを何杯も飲んでいるから、飲み干すということに…
休日、ワイシャツにまとめてアイロンをかける。畳んでいたアイロン台を立て、ワイシャツを乗せる。歌詞のないインストルメンタルを流す。アイロンが温まるのを待つ。 まず安いワイシャツからアイロンがけを始め、高いシャツは後回しにする。高いシャツはちゃ…
平日昼間、人の少ない小さな駅。一組の親子が電車を待っていた。 父親と母親に挟まれて立っている男の子は、小学校1年生くらいだろうか。 男の子の服装は次のようなものだ。ちいさな黒のサイドゴアブーツ。糊のきいた真っ白な半袖シャツ。鮮やかなキャメルの…
冷めたごはんはすきですか?僕にとって忘れられない冷めたごはんの1つは、2011年3月の白身魚のフライだ。 電気・ガス・水道が止まったあの日に、僕はコンビニで、ミネラルウォーターと電池と白身魚のフライを買った。地震が来た時に、しっかりと浴槽に水をた…
梅雨になると、あじさいばかり。いつも注意を払っていない道端の緑が、花をつけてはじめて、実はあじさいだったのだと気がつく。結構、あじさいってたくさんあったんだな、と独り言つ。 昔、住んでいた庭で、きょうだいと一緒にタイムカプセルを埋めた。子供…
たまに道路に落ちている靴、大丈夫なのだろうか。見たことありませんか?なぜか道端に片方だけ(あるいは左右両方)落ちている靴。落とした人は片足だけ裸足のまま家に帰っていったのだろうか。右足が泥だらけになって、家に帰ってきて、玄関マットに足をつ…
冷めたご飯はすきですか? 冷めたご飯がすきかと聞かれて、すぐさま首肯する人は少ないと思う。ご飯はできたてであたたかいのが一番、というのが社会通念だ。 でもたまに、冷めたご飯がいとおしくなりませんか。 例えば、2限だけで帰れる期末テストなんかは…
僕が耳にして(あるいは目にして口にして)、不思議と(あるいは必然と)こころに引っかかっていることばを思い出して書きます。 なんで引っかかってるんだろう?たぶん、それなりに大事だからだろうと思う。 でも、自分以外の人間からしたら、なんでもない…
ここにひとりの少女がいる。彼女は食卓につき、トーストにバターを塗っていて、いままさに朝食を食べようというところ。明るいギンガムチェックのワンピースと白いソックスが陽を受けている。彼女は色素が薄く、瞳は淡い茶色、髪を後ろで束ねている。顔のそ…
自分の書いた文章を読み返して、改めて、きもちわるい人間だなと思う。仕方ないですね。 ビールを飲む。ビールの不思議なところは何か?といえば、それはもちろん、仲間を呼んでくることだ。テーブルの上に直立している1本の缶が、気がつけば2本3本と増えて…
雨の日に貸してもらったCDをかけて毛布の中でまどろむ 偶然にも七五調になっているとうれしいですね。 僕は何を隠そう、音楽を聞かない方の人間だ。小学校から大学に至るまで、1枚のCDも買ったことがないし、TSUTAYAでCDを借りることもしなかった。 そんなわ…
もう、しばらくサンドイッチをつくっていない。 僕は朝食に好んでサンドイッチをつくる(あるいは「つくっていた」)。といっても手の凝ったものではなくて、簡単なやつだ。 最後にサンドイッチをつくった一番近い記憶は、数ヶ月前、冬の日だ。底冷えする朝…
幼いころ、僕は他の多くの子供たちと同じように、車や電車が好きであった。 特に好きだったのは、やはり新幹線であった。図鑑に載っている四角い電車たちの中で、新幹線のとがった鼻、白と青のコントラストは否応なく特別さを感じさせた。 僕はひたすら新幹…
年始に家族でうなぎを食べた。これはその報告です。 1月の風が鼻と耳をさす中、通りを歩く。行きつけの鰻屋に入る。店内はあたたかい。座布団の上にあぐらを書いて品書きを見る。あたたかいお茶が運ばれてくる。注文をする。 まずうなぎの骨せんべいと肝焼き…
写真家か何かが、彼の友人である有名なファッションデザイナーについて語る、という本があった。その中に序文として記されていたことが妙に印象に残っている。「彼の作るセーターなんかは、荒々しく使われ、毛玉がたくさんできて、おやつに食べたクッキーの…
駅からの帰り道、僕はハンカチおとしに遭遇した。 駅の裏道、塾やドラッグストアに挟まれて、小さなマンションが建っている。そこは裏道になっていて、道幅が細く、車は通れない。灰色のタイル張りの外観と、前時代的なネーミングが彫られた看板を掲げたマン…
子どものころに住んでいた東京の家には、小さな庭があった。何でもない、本当に小さな、あるいはささやかな庭だった。 その頃、まだ僕は幼かったし、父も母も若かった。 庭では、よく父がゴルフの素振りをしていた。僕は窓際に座りながらそれを見ていた。ゴ…
夏の終わり頃、14時、日差しが照りつけているが、朝方に降った雨のおかげで、そこまで暑くない日。 涼しい風が窓を抜けカーテンを揺らす中、フローリングに寝転んで、本を眺めている。 別の部屋から、洗濯機が回る音が、声を押し殺したような音量で聞こえて…
腹が減ったが料理は面倒、外に出るのもおっくうだ。そんな時、台所の食事をする。 夏はトマト。水道でじゃぶじゃぶ洗い、おもむろにかじりつく。一瞬、トマトの赤い皮が歯に当たった時の「きゅっ」という感触がしたかと思うと、トマトははじけて、すぐに口い…
もっぱら味のない炭酸水ばかり飲んでいる。暑い日はよけいにガス入りの水がうまい。 僕はその日、研究室でも炭酸水を飲んでいた。 時刻はほとんど深夜で、僕以外に人はおらず、エアーコンディショナーのくぐもった排気音だけがしている。僕はパソコンで何か…
中学一年生の数学は、フクオ先生という初老の先生が担当していた。 年齢を思わせる白髪まじりの頭髪に反し、背は曲がっていなかったため、長身が余計に際立っていた。分厚いメガネは四角くて、全体として定規のような先生であった。 先生はその直線的な特徴…
変人で知られ、古い映画好きである友人が、すき好んで飲んでいたのが、ウィルキンソンのジンジャーエールだった。 なにしろその友人のアパートは、映画のDVDやパンフレットにまみれ、やけに汚い調理道具や2世代前くらいのゲーム機、マイナーな小説や漫画、よ…
新年になった。1月、冬、冬といえば鍋である。 今年も新年は家族、祖父母で集まり、とり肉のお鍋を晩ご飯に食べた。毎年恒例だ。 テーブルに並んだ、おさしみ、いくら、おせちの残り、だいこんおろしと小ネギ、鍋用のやさいたち、きのこたち、それと少し高価…
幼稚園から小学校にかけて、僕の朝食はおにぎりだと決まっていた。 母がにぎるおにぎりは毎朝ちがう具だった。塩おにぎりの時もあれば、塩昆布が混ぜ込まれていたり、鮭が入っていたり、たまに遊び心でソーセージがつきささっていたりして、僕はそれがとても…
水にひたすと、大抵のものはやわらかくなる。 土、お米、教科書、パン、乾燥したローリエ、スパゲティ、あずき......。 ふと、十月の雨というものは、丁度いいものだなと思った。 九月の雨は、まだ少し蒸し暑そうだ。十一月の雨は、冷たくて指がかじかむだろ…
体験漁業というものに参加した。 体験といっても、別に魚を獲るわけではなくて、定員15名ほどの漁船に乗り、漁師さんが漁をするのを40分ほど見るというものだ。 漁船を少し近くの海まで出して、猟師さんが網を海に投げ込む。 底びき網漁というのだろうか、網…
童話の世界ではお菓子の家というものがあるが、僕はそれに似た、お菓子の風景を見たことがある。 季節は十二月、僕は四年生で、他の大学生と同じように、卒業までにやらなくてはならないことが背中にのしかかっていた。そんなわけだから、この冬は、朝早く起…