つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

買い食いのこと

およそ学生というものを経験した人のほとんどが買い食いをしたことがあるのではないか。僕は自転車通学だったこともあり、ついぞ買い食いをした記憶がないのだけれど。

 
電車を降りて、さあ家まで歩くかという時分になると、どうも胃の空白が気になって仕方がない。何か食べたいと訴える胃腸を、もうすぐで家だからと諭すのも限界になってくるのが500mほど歩いたばかりの頃である。
 
結局、途中のスーパーに寄ってあべかわもちを買ってしまった。
 
もうここまできたら一緒だろうとやぶれかぶれの思いから、道端にもかかわらず歩きながらあべかわもちの封を切る。プラスチックのパックに、きなこをまぶした不透明の餅が5つ、狭そうに押し込まれている。
 
親指と人差し指で、その餅の首根っこをひっつかんで、1つ口元にたぐりよせる。餅の弾力は、途中まで、すっと歯を迎え入れ、最後に若干の抵抗を見せたのち、ぷつんと切れる。きなこの香ばしさが口から鼻へと抜けていって、寒空に溶け込む。餅自体が甘いからだろう、このきなこは砂糖があまり混じっておらず、そのぶん大豆の風味が存分に感じられる。冬というのは寒さからかどうにも体じゅうに力が入っていて、顎も例外なくきゅっと縮こまり引き締まっていたものだから、どうにも咀嚼がおぼつかない。しかし2口目を味わう頃になると、もうやわらかい餅を小気味よく噛んで楽しむようになっている。そして、1つ手にすると、もう1つ、さらに1つとなるのが人間であるから、歩きながら合計3つのあべかわもちを平らげてしまったことも自然ななりゆきであった。まるで餅のほうから喜んで飛び込んでくるような滑らかさである。すっかり満足して、指とコートにふりかかったきなこを払うと、もう家である。先ほどもちをつまんでいた人差し指と親指はいま鍵を掴んでおり、風と音のない我が家の戸を開けている。玄関に座り、ふうと満足と疲労が混じったため息ひとつ、靴紐をゆるめる。すっかりお腹がふくれたから、今日の晩御飯は少し遅めでいいだろう。

スノードームのこと

時節柄、インテリアショップにスノードームが並びだして、そういうのを見つけてしまうと、ついひっくり返して、雪が降るところを見たくなってしまう。

大抵、それなりの重さがあるから、手を滑らせないようゆっくりと宙で逆さにして、しばらく雪を光の中で遊ばせた後、またもとに戻す。
 
この前に行ったお店では、中に何も入っていないラメだけのスノードームと、帽子をかぶったガラス製のクマが1頭入っているスノードームが、並んで陳列されていた。どちらも高価なものらしく、1点ずつ飾られてている。
 
「この何も入ってないほうがいいな」
「そうかなあ、さみしいよ」
「クマのほうがさみしいと思うな」
「なんで?」
「いつまでたっても、彼はずうっとスノードームの中で一人ぼっちなのかなって考えちゃって」
「なんだかつらくなる考え方だなあ」
 
スノードームを集めてみようかという気がたまに湧くことがあるけれど、かさばるし重いから、コレクター泣かせのような気がして、その思いつきはだいたい棄却される。あのクマは誰かに買われたかしら。あのスノードームのなかでは1日に何度雪が降っただろう。

装丁のこと

書物、言語、詩歌、文学、僕の家族は何なんらかの形で、そういったことを生業にしたり、趣味にしたり、ライフワークにしている。祖父もそうだった。やはり人の一生に言葉というものは欠かせないようである。

 

僕の家には昔から途方もない数の本があった。

玄関、リビング、トイレ、客間、書斎、浴室、和室、子供部屋、キッチン、階段、ホール、廊下、いたるところに必ず大量の本があり、だいたいの部屋には本棚があった。棚からはみ出した本は、尊大な子猫のようにソファに鎮座し、床に平積みされ建築物となり、ときに湯船の蒸気にやられ丘陵地帯のように表紙を歪ませていた。多くの読書家がそうであるように、親父の書斎もまた、部屋の4面全てが本棚になっており、そこではたえず本の新陳代謝が行われている。増えたり、捨てられたり、持っていかれたり、移動したり。周りに本があふれているものだから、子どもの頃の僕たちは、暇なとき、そばにある本をめくったり眺めていたりした。しかし悲しいことに、そんな家に育ったにも関わらず僕の読書量は人並み以下である。

 

幸運にも、大学で出会った2人の人間のおかげで、僕はブックデザインに興味が湧いていた。1人はKさんという後輩、もう1人はSさんという大先輩である。勝手に後輩だの先輩だの言って怒られそうだ。とにかく彼/彼女おかげで、影響の受けやすい僕は自分でも本のデザインをしたいなと考えていた。実際に、本を作ってみたり、ブックデザイナーの展示や講演に何度か出向いたりというまめまめしさも見せるほどであった。しかしながら、僕は依然としてデザインについては素人である。また、作る側になりきれないからと言って、見る側にもなりきれずにいた。例えば足繁く本屋に通って装丁をひたすらチェックしたりとか、デザインを批評したりとか、そういった几帳面なことができる性格ではない。

 

では苦もなくできることは何かと考えてみると、ひとつだけある。それは他人が自分のすきな本を語っているのを聞く、ということだ。自分の好きなものを語っている人というのは愛しいものである。例として、amazonで見た、ある本のレビューに気に入った文章があったから、ここに一部を省略して引用してみる。

 

「この本は古本屋さんで見つけて買いました。

中はまだ読んでいません。

そのうち読もうと思います。

きっと良い本でしょう。

でも私にはカバーの絵だけで充分です。」

 

このレビューからは、ささやかな幸せのにおいがする。古本屋で買ったのにAmazonのレビューを書くというのも不思議な話ですが、まあいいじゃないですか。

この文章の、「きっと良い本でしょう。」という一文がとてもいいのである。

 

きれいな山のあるところにはきれいな湖がある。豊かな山の雪がほぐれて水となり、染み込み、土や石で濾されて、湖に湧き出す。この山と湖との関係は、そのまま本の装丁と書物の中身にも言えるように思う。なぜなら装丁は本の中身を元にデザインされるからだ。表紙、見返し、花布、栞、本の一つひとつの要素は、その本の内容をほのめかすような、暗示するようなものである。だからカバーを見て「きっと良い本」だと気に入ったのならば、その人にとって本の中身も少なからず波長が合うと思う。だからこの人は、中身を読む前から「きっと良い本」だと感じているのだ。

装丁をする人にとっては、本がたくさん売れることが大事で、ビジネスだから数字を気にしなければいけない。それが商業デザインだ。多くの人の手に取られ、買われることは、クライアントのために必要な成果だと思う。でもその中で、万人に好かれなくとも、カバーがいいと大いに気に入ってもらえる人が少しいることも、すごくうれしいことだという気がする。数字とか売上ではない部分......いわばデザインと工芸とアートが混ざったような、そういう側面があることが、装丁のデザインのいいところだ。

気に入っている本を人にあげるということを、僕は迷惑かなと思いつつ、ごくごく稀にやってしまう。好きな本を手放して、好きな人にあげる。手元に置いておきたい本ほどそうしたくなる。それというのも、中身だけでなくて、装丁もまるごと、物として気にいっているからだ。本のデザインをしてくれてる人、ありがとうございます。

相貌のこと

人の顔というのは、よく覚えているようで実のところうまく捕らえられていないものだ。夜のソファでひとり、はてあの人はどんな目鼻立ちだったろうと頭で考えても、はっきりとした輪郭を描くことは難しい。集中して人の顔を思い浮かべれば、限りなく精緻な靄が浮かぶけれど、やはり靄は靄である。

面白いのは、長年連れ添った家族や友人、恋人で、ふとした瞬間に、今まで気づかなかった特長を発見するときである。例えば、顎の付け根に痣がある、首元に白い毛の一本が生えている、右耳の黒子が直線状に並んでいる。何気ない瞬間にぼんやりと見つめる、ほんの5秒ほどの時間によって、未発見の新しい特長がふと顔をのぞかせる。
 
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若く小さな杏のような人である。朝日に透かされる短めの髪、薄い眉。いつも少しだけ眠たげな、ささやかに垂れた目は、親近と安心を与えるやさしげな空気を宿しており、その人の大きな魅力のひとつである。少し潤んだように見える瞳は女性らしいしぐさを持ち、それを守る睫毛は軽やかだ。鼻は算数の教科書にしばしば現れるバランスのよい三角形である。この人の特長を捉えるのに他者はよく目の形・印象を手がかりにするが、鼻も目と同じくらい、この人をこの人たるものにしている肝要な部分ではないかと思われた。やわらかな桃色のクレヨンを画用紙にさっと横一文字に押し付ける、すると口元ができる。唇は薄く、いつも笑っており、彼女の控えめな背丈とその笑顔が合わさることで、彼女にしか出せない愛らしさ、かわいらしさを生み出している。特筆すべきことのない耳になにか書き加えるなら左右で穴の形の違うことである。驚くべきは、頬に滲みもなければ黒子もないことだ。邪魔するものがなにもないおかげで、冬の寒さによってもたらされる薄紅色が頬をいっそう美しくして、まわりの空気と輪郭を優しくふやかす。喉元はやわらかな肉でうっすらとおおわれており、小動物の腹のような、ある種の弱さと、それによってもたらされる、こそばゆい不安感がある。喉仏は出ていない。首は、しょげているとき、呆れているとき、男の愚行をたしなめるときに少し傾ぐ。化粧をしていないときのほうが、いっそう人間的な美しさを見せる人である。ただただ優しげな貌である。
 
少し老いたヤギのような人である。色素の薄い家系から、やや長めの頭髪は陽に照らされると、暗いチョコレートのような、あるいは少し明るい泥炭のような色を見せる。しかし一方で太めの眉毛は黒に近い。鼻はしっかりとしていて男性的だが、積み木で組み立てたような単純な造形である。この人の鼻は途中で折れ曲がる鷲鼻である。目は奥二重だが、奥の襞は全く見えず、結局のところ一重と同じであり、顔の印象には影響していない。黒い瞳を宿す垂れ目は、よくみると左右で大きさが違っている。しかし本人以外でそのことに気がついている者は少ない。この垂れた目が、ある種の自信の無さや優柔不断さ、そして幾ばくか、人に甘えているような印象をもたらしている。しかし無表情の際はその目の効果も乏しく、話しやすい人間なのかあるいは気難しい男なのか初対面では判別がつきにくい。少し膨れた涙袋にはうっすらと隈が見え、疲れているようである。特筆することのない口元は、刻まれた皺とともに少し下がっているが、親しい人が現れると途端にゆるむ口角である。笑顔を作りすぎて口元の皺はいっそう深くなったのだろう。万年筆のインクを飛ばしたような黒子が頬にあり、顎の輪郭は乾燥した板材を思わせる。首には、ちょっとした丘陵よろしく、喉仏にしては少し成長しすぎた突起がついていて、もし首元だけで人物を判断するなら真っ先に手がかりになるであろうパーツである。達観しているようでその実、全く考えなしの子どものような人である。
 
犬のような人である、あるいは人のような犬である。毛は濃いグレー。チャコールまでいかぬが上品さを周囲に示すのに十分な濃度を備えており、その毛が顔全体をおおっている。体躯が小さいものだから、その顔も、ラグビーボールを二回り小さくした程度のサイズである。耳は肉厚で、かわいらしく上を向いて立ちあがっている。目は洋服のボタンでできており、真っ赤であるが、不思議と怖さはなく、むしろとぼけたようなかわいらしさや愛らしさを持つ。大きな鼻の下には水平線のようにまっすぐな口が現れ、目の印象と相まって何を考えているのか捕らえずらい効果を生み出していた。しかし時として、何を考えているか掴めないということが、とてつもないことを考えているかのように見えることがある。彼(あるいは彼女)がベッド脇に小さく腰掛けていたりすると、まるで遠大な哲学の命題について思索にふけっているようにも見える。体は赤く、胸元にサンタクロースの顔を象ったバッヂがついている。生まれてからこのかた、常にこの服装であったため、そこには季節感や時制といったものがなく、したがってサンタクロースというモチーフも、その意味や由来といったものが完全に摩滅し、ただ物体としてそこにあるだけとなっていた。

紙箱の水槽のこと

男は久しぶりに実家に帰り、部屋の整理などする。部屋の掃除というのは、古書店で気になっていた本を偶然見つけるような驚きと楽しさをもって、懐かしいものとたくさん再会するものだ。彼がその日見つけたのは黒い紙箱だった。

 
カーテンを閉め切った少し薄暗い部屋の中、小ぶりな箱を手の中でもてあそんでみる。小さなカーテンの隙間から、定規のような愚直さをもって差し込む陽光が、静かに漂うほこりを光らせていた。手の中に納まった墨色の紙箱には、中央にAlfred Dunhillとロゴが押されている。うっすらと色褪せたその文字には、揮発してわずかばかりになった威厳と、長い月日を経て醸成されたある種のささやかさ、遠慮のようなものがあった。名刺入れでも入っていたのであろう小柄なこの紙器に、男は強烈な懐かしさを覚えた。普通の箱だったら見向きもしなかったと思うのだけれど、この箱には右上に穴が開けられている。そしてその穴には、およそダンヒルとは相容れないであろう白いビニール紐が通され、その不調和がなんともいえないかわいらしさを生んでいた。彼はこの穴とビニール紐に見覚えがあった。
 
開けてみると、箱の中はからっぽである。しかしそこには魚がいた。彼が子供の時分、雑誌から切り抜いた魚のイラストを、箱の底に何匹も貼り付けていたのである。色とりどりの魚が9cm×12cmの箱で泳いでいて、ちょっとした水槽のようになっていた。まだ心の中に「図画工作」という言葉が特別な響きを持って存在していた頃だ。魚を貼り付けた水糊の跡だろうか、ところどころが薄氷を張られたようにてかてか光っている。水槽の底にあたる部分には、緑と茶色のサインペンで、子供特有の、がたがたした力強い筆致で描かれた海藻や岩が波に揺られていた。黒く上品なダンヒルの化粧箱の中に、外側からは想像できなかった拙い水槽が入っているこの不調和に、愛らしさを感じた。
 
あの穴とビニール紐は、箱と蓋とが別々にならないように通されていたものだった。外見からは想像できないあのかわいらしい魚たち。蓋がなくなったら、箱を開けた時の驚きも消えてしまう。だから、この水槽にとって蓋はとても大切な存在だ。蓋をなくさないようにと、母か父が紐を通しておいてくれたのだろう。子供の頃の彼は、箱を開けてその小さな水槽を眺めては喜んでいたに違いない。
 
しゃらしゃらとしたビニール紐の感覚が指をなでる。少しくすぐったいような気がする。蓋を閉めている間も魚は変わらずそこにいるのだろうか?蓋を開けてみる。果たして魚はそこにいる。また蓋を閉める。再び開けてみる。やはり魚は泳いでいる。男が大人になるまでのこの十数年間、やはり魚は泳ぎ続けていたのだろう。彼は水槽をデスクの引き出しにしまった。部屋はしんとしている。部屋のほこりはやはり静かに漂って、小さいながらもきらきらと太陽の光をはねっかえしている。水換えも餌やりもしなくていい、僕のささやかな水槽であった。

冬のこと

冬がすき、マフラー、コート、フランネル

メルトン、セーター、コーデュロイ
ニット、ウール、そしてあたたかなポケット、
 
枯れ木、落ち葉、白い雪、
白い息、白い肌、白い肉まん、
キャメルのコートにグレーのズボン、
水筒にコーヒー、ポケットのおやつ、
 
歩くとかつかつ音がする、寒さで縮こまった線路のレール、
つめたい風とあたたかな陽光、
冷えて主張をしない耳、
すっかり元気をなくした芝生、
 
友だちのアパートにある小さなこたつ、
コンビニおでん、猫の体温、飲み屋の熱燗、
曇るめがね、フードの中のささやかなぬくもり、ドアノブにやどる静電気、
台所で冷え固まるはちみつの瓶、土鍋からのぼる白い湯気、遠くで聞こえる「石焼き芋」、
ガスストーブの不思議なにおい、かさかさしている指20本、朝出られなくなる分厚い毛布、
かわいた空気の煤けたにおい、肺を満たす冬の粒子、赤々としたりんごの重み、冷えたほっぺの薄紅色、冷え性の君のハンドクリーム、あたたかなポケット、
 
冬よ来い、朝の冷気を寒がりながら、冬が来るのをゆっくり待ちたい、
 
冬がすき、

足あとのこと、痕跡のこと

テレビで十数年前の映画をみた。

クリスマス、偶然出会った男女が意気投合するも、2人はあえて連絡先を教え合わない。そこで女性がロマンチックな提案を、あるいは馬鹿げた考えを持ち出す。

5ドル紙幣に名前と電話番号を書いてお店で使う、ハードカバーの本に連絡先を書いて古本屋に売る..........もし、その紙幣や古本が巡り巡って、相手がそれを偶然手にして、また連絡が取りあえたなら、それは運命だと。結局、どんな映画だったか細部はよく覚えていない。ただ、男性が5ドル札にピンクのサインペンで自分の名前を書き込むシーンが妙に頭に残っている。

 

紙幣や古本といった、人の手を渡るもの......パブリックなものに自分の痕跡を残すというのは不思議な哀愁がある。自分の書いたものを誰かが見てくれるかもしれないし、誰の目にも留まらないまま、消えてしまうかもしれない。

 

都内に出て、いくつかの展示を見る。小さな展示会では、たいてい芳名帳やノートが置いてあって、名前と連絡先が書けるようになっている。

あの時、1日をかけて、僕はできるだけたくさんの展示を見に行き、それぞれのノートに片っ端から名前を書いた。ほんの数ヶ月前のことだ。

幸せな生活によって、記憶の居室を陣取られて、僕のことを忘れてしまった人たちが、偶然ここに来て、ノートに書かれたこの名前、この筆跡をみて、僕の声や、耳の形、ほくろの位置を思い出してくれるのではないかと思った。つまらない考えだと思いながらも。

むなしい気持ちになったからか、あるいは飽きたからか、あるいは意味を感じられなくなったのか、それは2,3回やってやめてしまった。

 

誰しも経験があるんじゃないだろうか。中学生のとき、移動教室の机にメッセージを書いたりして、あるいは、子供の時にひみつの手紙を地面に埋めたりだとか、やることのない夏休み、つまらない言葉を綴った紙片を図書館の本に挟んだり......そういうことを。きっともう、みんなすっかり消えてしまっているだろう。