つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

祖父への贈り物のこと

祖父にブルーレイレコーダーを贈った。今まで使っていたものが壊れておじいちゃんが困っていると母から聞いたから。

ドラマが好きだが夜9時には床についてしまう祖父にとって、レコーダーはまさしく必需品だった。病を患って、歩くことが年々難しくなっている祖父には、好きな番組を録画して次の日に観るというのは大変な楽しみなのだ。

 

特に祖父母にはレコーダーを贈るとは伝えず、黙ってネットで注文していたので、彼らは突然の配送物に驚いたようであった。夜、電話がかかってきた。

 

ほがらかな祖母の声。ありがとう、こんなによくしてもらって、本当に悪いなあと。最初は元気の良いいつもの祖母だったが、しだいに声がしっとりとしてくる。まさかそんなことしてもらえるなんて思てへんかったから……。ありがとうね。本当にうれしいわ。ついで受話器は祖父に移された。おうおう、といつもの祖父の、ゆっくりとした声。元気にしてるか、寒いから気つけや、と言われて、それから、ありがとうな、こんな高いものしてもろて、と、お礼を述べられる。いつも通り言葉数の少ない祖父だが、とても喜んでいることが伝わってきた。本当にありがとな、という声とともに、また電話は祖母に戻された。おとうさんは、病気のせいもあって、なかなか言葉がすっと出てこうへんけど、すごく喜んでねえ、ありがとうね、なにもおかえしできないけど……。

 

ひたすら、ありがとうね、ありがとうねと繰り返す祖母、まるで僕は神様か仏様のようだ。祖母の声は涙ぐんでいるのかと思うくらい、揺れていた。本当に喜んでくれているようだった。あるいはうれしさから涙ぐんでいるようだった。今まで人に贈り物をしてきたけれど、ここまで人に喜ばれたのは初めてなのではないかと思った。砂地にじんわりとあたたかな雨が染み込むように、祖母の声が耳を通して、首元のあたりに染み込んで、やわらかいところを固結びにしてくる。なぜか僕の目もうるうるとしていた。なぜだかは分からない。祖父母はいつからだろうか、喜んでいるときの声にも、憂いを帯びるようになった。やわらかい覚悟というか、自分はもう長くないと、ゆるやかな確信を持っているのだと感じるときがある。そしてそれは僕もそうなのだ、祖母はよく「棺桶に片足つっこんでるから」と冗談めかしていう、祖父はおだかやかな笑みを浮かべながら「おじいちゃんはもう長くないから」と言う、祖父母の寿命について、ものすごく弱い、しかし芯のある、かしいだ柳のような力を以って頭の無意識の部分に刷り込ませてくる。年はとっているが声量は決して弱くないし、滑舌だって悪くないのに、祖父母の声にはなぜか、乾いた風に吹かれる綿毛のような、冬の砂浜にぽつんと残された石のような、頼りなく、はかない感じがある。だから、喜びを伝えるお礼の電話なのに、どこか物寂しさが漂っている。そんな声だから、とてつもなくうれしい気持ちと一緒にふしぎと胸が締め付けられる感じがする。ありがとう、うれしい!と感嘆符をつけるような、歯切れのいい、簡潔なお礼を言って電話を切ってくれればいいのに。ありがとう、ありがとうと繰り返す祖母、寡黙だがゆったりとした深い笑みをたたえる祖父、あの声や顔の、幸福と憂いが混じった湖面のような空気はなんなのだろう、なぜ僕はうれしいのにさみしい気持ちになるのか、なぜつらい気持ちになるのか、なぜ心細い気持ちになるのか。