つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

はなむけの酒

この散文は11月の寒い夜に書き始められた。なんとはなしに書こうかと思った。3月に書けばよいのに、年の暮れから書き始めているのは酔狂である。

 

ある事柄について語るとき、中心を掴むよりも、周縁をなぞることで、そのものの性質が浮かび上がる、そういうときがあると思う。この文章では、酒を鑿とし、人を彫り出せたらいいなと、そう思って、4人の友人について書く。

 

まずは1人目の友人である。彼はひどく茶を飲む、水を飲む。彼といえば果実酒である。男はこれをがぶがぶと飲む。目が据わっている。妙な頼もしさがある。グラスよりも五郎八茶碗の方がいいのではと思うくらいである。お供は2リッターのペットボトル茶で、これを幾本も、難なく飲み干す。空になった老酒の瓶をいくつもそばへ転がしている中華の豪傑のようだ。そんな大胆な飲みっぷりの男であるが、しかし豪放磊落というよりもむしろ、黙々と、訥々と大陸中の酒精を胃へ流し込むような、そんな朴訥とした人である。僕は彼に、大きな黒曜石の鏃のような印象を持つことがある。大胆と言おうか、荒削りと言おうか、尖っているようで角がとれている、しかし確かに尖っている……そういった共存が彼の良さと悪さになっていて、それが彼の描く絵にも魅力として現れているように思う。

 

次に2人目である。彼は酒に強い方ではない。あれだけ長く共に過ごし、結局、彼が特段に好きな酒というのが分からずじまいである。彼に結びつく酒は「アプフェルフュラー」というカクテルただひとつだ。スクリュードライバーを作ると言ってなぜかアップルジュースを購入し、この身勝手なカクテルをでっち上げた。しかし調べてみると、これはウォッカアップルと全く同じ材料である。ただひとつ違うのは適当さ・杜撰さであり、それはこの「アプフェルフュラー」のレシピにも表れている。つまりそれは「ウォッカ:適量・アップルジュース:適量」という怠惰だ。彼はその物腰とは裏腹に、自分の考えややり方について頑強な一面を持つ男である。しかし一方で興味のないことは極端に適当に、感覚的になる傾向もあった。そう考えると彼らしいカクテルである。それはこのカクテルの長所でもあり、彼の長所でもある。酒宴が深まると、最後の方では、並々と注がれたウォッカに一滴のアップルジュース、というおかしな配分のカクテルが、蛍光灯の光を透かしながら汗をかいている。

 

3人目の朋友である。フランスのサロン通いのような教養を持ち合わせつつ、六畳一間で懊悩する苦学生のような獣っぽさを持つ男である。間違いなく彼は人物だ。彼からは、アブサンと、言語、ピアノ、宗教のイメージがふつふつと湧く。彼は考える能力が幾分、人よりも働きすぎる人間であった。頭を雑巾のように力一杯絞り、一滴ずつ思考を抽出する人間もいれば、脳みそが常に水を吸いすぎた海綿のようになっていて、ぼたぼたと勝手に思考が滴り落ちてくる人間もいる。彼は間違いなく後者の型だ。僕は心が疲れきっていた時に、彼の膨大な引き出しに何度か助けられた。無意識にどこまでも思索する男である。そういう人間には、何か麻痺させる役割として、度数の強い酒が必要になるのではないかと勝手に考えていた。酒は、体にまとわりついた智慧や知識を剥がして生物に戻してくれる。

 

4人目である。彼は時期ではないが、一緒に書いておく必要がある。アルコールに惚れ込む人間は多々いるが、彼はアルコールの方から見初められた気配がある。気づかいができすぎるほどできる男であるが、ある一定の距離感を保つことを忘れぬ。それは酒に対しても同じ姿勢であるように思う。そういった態度も含めて、なぜか分からないけど僕は常々、彼の人間性とか、言葉選びのセンスとか、そういったものに対して強い憧れがあった。この男は種々様々な酒を飲むし、うまい酒に惚ける態度も、まずい酒の愉しみ方も知っている。特にビールを好んで飲んでいるのだが、彼と酒について書こうとして、なぜかふと、トライアングルを思い出した。彼がこの酒を買って飲んでいたのはごくごく短い間であったが、当時アルコールへの耐性のなかった僕にとって、度数の高いものを飲むことはやたらと大人に見えたものである。黒瓶に転写された黄色い三角形のロゴマークが、ほの暗い学生宿舎の間接照明にぼうと浮き上がる光景が妙に焼きついていて、それゆえこの酒が記憶の隅からこぼれ落ちてきたのだろう。

 

この何年か……思っていたより長かったけれど、過ぎてしまうと短かった何年かを思い返してみる。

花見でビールを注ぎ込み、何もない日も集まり果実酒をつぎ入れ、つまみを作りながら空き缶を机に並べ立て、夏の湿った熱気と冷えた焼酎をがぶりと呑み干し、旅先の港町で刺身を放り込みながらつららのように清冽な日本酒をちくりとやって、麦酒を片手に夜の浜辺へ繰り出し、アイリッシュパブで眠い目をこすりながら真価の分からぬブランデーを舌でつつき、冬は床の冷気に耐えながら狭いキッチンでワインをあたため、東屋で生ぬるい春風と草木の匂いを肺に溜めながら飲んでみたり、ウイスキーを持ち寄り氷が溶けるのを怠惰な目で眺め、ジンを様々なものと混ぜ合わせてみる実験を、大型スーパーの安すぎるビールに舌鼓を、適当なカクテルを作って喧々諤々、宵闇の中アルコールを手に入れるべくコンビニに駆け込み夜道を転がり身に覚えのない傷をつけ、誰かの土産を貪りながらやはり誰かの土産の酒を飲み、朝と夜の狭間も・週末と週明けの境目も・月の変わり目・季節の継ぎ目・大晦日と元旦の境界も・乗り越え乗り越えやはり酒の栓を開けていた。馥郁としたモラトリアムの香り(そして延長)、泥臭く格好のつかない生活、大きな夢と恥ずかしい妄想、お手軽な絶望と何倍にも希釈された絶望、ささやかな嫉妬と大きな賞賛、長いトンネルと真贋の分からぬ孤独、桃色の思い出と灰色の脳みそ、大きなキャンパスに小さな体、なんと不思議な生活だったろうと思う。

 

冬は隠れ、コートとセーターがクローゼットに押し込まれ、勝手に年度のスタートラインを押し付けられた4月と春とが、またみんなに平等に巡ってくる。普段は忘れ去られ、埃のかぶったたくさんの言葉たち、つまりは「新しい門出」、「羽ばたく」、「明日」、「切り開く」、「未来」、そういったぴかぴかしたメッキみたいなものが、全国津々浦々290万人の学生に対して、苦々しさと胃腸炎と寂しさと引っ越しと市役所での手続きと精神的身体的暖かさと数万の手痛い出費と郷愁と1mgほどの高揚感を無理やり押し付けてくる。こうやってつらつらと書いては思い出し、思い出しては書いていると、色んな人のことを思い出して感傷に浸ってしまう。互いに摩滅してしまうほど一緒の時間を過ごした何人かの同級生と、たくさんのことを教えてくれた大切な後輩たちが、住み慣れた土地を出てゆく。何はともあれ3月の終わりは「別れと出会いの季節」であり「旅立ちを祝う」すばらしい時なのだ。

みんな卒業おめでとう。