つづく日々(人を思い出す)

含蓄もなく、滋味もなく、大きな事件も起こらない、自分のあやふやな記憶の中の日々と人々とを散漫に思い出して書きます。

布団の洞窟のこと

子どものころ、羽毛布団にくるまって、じっとしていることがあった。

布団を体に巻きつけるのではなく、すこし空間を持たせてドーム状にする。そうすると、ぼこぼこした布団はやわらかな洞窟のようになった。

 

昼の光が布団を突き抜け、羽毛が詰まっているところとそうでないところをあらわにした。濃淡が透けて見えていた。

本来軽やかなはずの羽毛、その羽毛が詰まっているところは黒く、重く、濁って、湿って見えた。

 

布団の中は昼でも薄暗く見える。
その中に、よくキーホルダーとアナログの置き時計を持ち込んでいた。
理由は単純で、どちらも蓄光塗料が塗ってあるからだ。子供は暗闇で光るものに目がない。

 

窓際に置いたキーホルダーは、蓄光塗料(ルミネセンス)をたっぷりその身に吸い込んで、布団の中で緑色にぼやける。ただそれを見ているだけで時間が潰せた。

蓄光塗料が塗られた置き時計の長針を、意味もなく眺める時間があった。そこで時計は時刻表示という機能を捨てて、ただ発光する立方体としての役割を求められていた。燐光をただ見ていた。

いまでは考えられない時間の感覚であった。

11月のこと

夏が終わり、時間は水切り石のようにたったったっと過ぎ去って、11月になった。

干からびたバターみたいな落ち葉が、アスファルトのあちらこちらで折り重なっている。スウェット1枚で暑い日もあれば、コートを羽織らないと寒い日もある。みなクローゼットに頭半分つっこんで、探り探り服を着る。

ほんのり防虫剤の匂いがするコートで、前方からやってくる木枯しをしかめっつらで受け止める。寒い季節にはしかめっつらが似合うからだ。

2020年は色んなことがありすぎた。さっきまで目新しかったものが、まばたきするうちに常識になっている。

ベンチに座る。マスクを外して息を吸う。乾いた土の匂いが肺を塗り替えて、そういや嗅覚は季節のしっぽを掴むための器官だったと思い出す。

ふと目を落とすと、フランネルのズボンに石炭のかけらみたいなものが乗っかっている。よく見るとそれは蚊だった。右手ではたく。逃げるまもなく石炭は潰れた。はたりと落ちる。ふわりと消える。夏にとどめを刺した気がした。暖かい日が続いている。けれど、いいかげん秋を迎え入れないといけない。

北欧の夜のこと

スウェーデンの夜を覚えている。2月のスウェーデン。坂道を歩く。サーブ、フォルクスワーゲントヨタ、表情豊かな車が路肩に並び、眠っている。不思議とどの車もくすんだ色になる。


北欧の夜には不思議な静寂がある。凍ったアスファルトが音を吸いとってしまうのかもしれない。街灯の光子も彫刻のように止まっている。


あの冬、仕事で北欧にいた。同業者と一緒に北欧を回る出張だった。みな、巡礼者のように、同じような黒のダウンジャケットに身をつつんでいる。凍った道に足を取られないよう、歩幅を狭くして、冷気で化粧した街を歩く。

 

ペリカン」という名のレストランに入ったのは、北欧に着いてから何度目かの夜だった。タイル張りの床、チークの壁、スカンジナビア特有の、あのとろけたような飴色の照明。ビアホールスタイルのペリカンレストランはダンスフロアのように広く、笑い声とグラスを打ちつける音に溢れている。今までに見たどのレストランよりも薄暗いが、しかし、今まで見たどのレストランよりも客の顔が明るい。


僕らは4つのテーブルをくっつけた一角に座る大所帯で、めいめいが好きなビールを、あるいはワインを、ぶっきらぼうな英語で注文した。テーブルのろうそくが子熊のダンスのようにゆらめく。人の瞳を大きく見せる、不思議な炎だった。スウェーデンで覚えた「スコール!」の掛け声とともに、琥珀色の液体を冷えた胃に流し込む。


ざらざらとした紙のメニューは、スウェーデン語と英語の2つが印刷されていた。チーズ、魚、マッシュドポテト、そして子猫の頭ほどの大きさがあるミートボールがテーブルに並ぶ。肉厚な白磁の上で、てらてらと光る料理を見ていると、夢と現実の境界が曖昧になる。メニューに刻まれた”smaklig spis!”の文字が滲んでいく。


ふと隣のテーブルを見ると、やけに騒がしい。スウェーデンの若者が盛り上がっている。年の頃は20代。テーブルではしゃぐ8人全員が屈強な男たちだ。不思議なことに、全員が純白のナプキンを頭にかぶせている。ナプキンの四隅を結び、帽子のようにして。


水夫のようだ、と思った。彼らはだいだい色の髭と睫毛をろうそくの光に透かし、歌を歌い始めた。樽いっぱいの勇ましさに、ひとさじの寂しさを混ぜたような合唱。なぜかその歌と、その力強い瞳と拳とは、バイキングを思い出させた。


アルコールの助けもあるのだろう、バイキングのひとりが、僕らに話しかけてきた。君たちはどこから来たのか?トウキョウだと答える。すばらしい!乾杯!と男が叫ぶ。テーブルでできた国境は曖昧になって、アジアとスカンジナビアが溶け合った。トウキョウの明かりは闇を削る。北欧の光は、闇をぼかすようなやわらかさがあった。


日本の歌を聞かせてくれ!——スウェーデンの若者がテーブルの向かいから叫んだ。僕らは困り果ててしまった。この異国の地で、ここにいる日本人が詰まらず歌えて、しかも日本を代表するような歌……それは一体なんだろうか?


君が代。いや、堅すぎる。「翼をください」はどうだろう?しっくりこない。誰かが言った。「『ふるさと』だ」


そして僕らは、声を揃えて歌った。

兎追いしかの山……小鮒釣りしかの川……夢は今も巡りて……忘れ難き故郷……

 

北欧の地においても、当然ながら僕らは日本語でコミュニケーションをしていた。でもそれ以上に、「ふるさと」は日本語で話していることを意識づける歌だった。

8000キロ離れたスウェーデンの地で、この歌の持つ郷愁は凄まじいものがあった。僕らは住んだこともない日本の原風景を思い浮かべて、目頭を熱くした。バイキングの若者たちはその大きな手で拍手する。ペリカンレストランの客にとって、「兎」や「小鮒」から浮かぶイメージは、僕らのものと随分違っていただろうが、歌の持つなにかは伝わった。

そして彼らは返歌とばかりに、彼らの故郷の歌を歌った。いや、実際は故郷の歌ではなかったかもしれない。けれど、僕らが言葉とメロディで故郷を表現したことを、彼らは彼らなりに感じとって、故郷の歌を口ずさんだのではないかと思う。そう思いたいだけだ。独りよがりかもしれないけれど、ペリカンレストランの光は、そう思わせるに十分な魔力を持っていた。


歌の交換が終わり、場が落ち着いて、ひととおり肉と魚とアルコールを胃におさめた後、僕らは三本締めを派手に決めてやった。これもスウェーデンにはないものだ。隣のバイキングに威勢を張るため……あるいは、友好の意を示すため、僕らは目配せし合いながら手を掲げた。「イヨォーオ!」という掛け声とともに掌を打ち付ける。スウェーデンの若者がワッと歓声をあげる。「俺にもやらせてくれ!」誰かがスウェーデン語で叫んだ。「よし!」日本語が応える。片言の「イヨーオッ!」、それに呼応する柏手。そして都合3回の三本締めを終え、スウェーデンの夜はふけた。

 

あれは夢だった、と言われても信じてしまうくらい、全てが出来すぎた夜だった。

ホテルに戻り、ベッドに倒れ込む。

頭の中に、凍りついた道と、白い息と、温かなテーブルと、チョコレートのようなミートボール、人懐っこいスウェーデンの男のきらきらした眉毛がこびりついている。

お金持ちになったらのこと

お金持ちになったら何をしたい?とか、10億円当たったら?とかは、会話の間をつぶす、定番の質問だ。

 

根が小市民だし、特に夢もないから、答えに詰まってしまう。ふと出てきたのが「ヤクルトの5本パックを一気飲みしたい」くらい。それくらいだった。

この前、4パック1セットになっているカップのヨーグルトを一気食いしてやったなと思い出す。ヨーグルト4パックをまとめて食べるのは、子供の頃のささやかた夢だった。自分の中では、お金持ち=まとめ食いの図式があるのかもしれない。

 

ここ2週間ほど、新幹線での出張が多かった。

夜のN700系は、サラリーマンと旅行者、お弁当とビールの匂い、トンネルを通るびゅうびゅうという音でまぜっかえされている。特にやることもなく、窓から景色を見ようとする。車内が明るいせいか、ガラスは気だるげな自分の顔を映していた。目の焦点を変えると、うっすらと外の家やビルの明かりが見える。車内のLEDと、自分の目の輝きと、外の夜景の粒とが、新幹線の窓ガラスにぴたっと貼りつけられている。車内の電気を消してくれないかなあ。そうしたら外の景色が見えるのに。

 

もしお金持ちになったら、新幹線を貸し切りたいなと思う。

20:00東京発〜京都行き。車内の電気は全て消してある。貸し切った自分ただひとり、車内に滑り込む。3列シートの窓際を陣取る。17番線に鎮座している新幹線が、ホットミルクのような滑らかさで加速する。プラットフォームの明かりを受けて薄暗く照らされた車内は、東京駅を抜けて俄然、暗くなる。新横浜までは、窓に張りついて、高層ビルの明かりやLED看板、時代遅れのネオンサイン、高速道路に連なるブレーキランプを眺める。新横浜を抜けたら、いっそう暗さを増した中でお弁当を開く。光がないので、なにがなにやらわからない。かたまりを箸でつまんで口に入れる。シュウマイだった。手探りでプルタブを開けて、ビールを流しこむ。いつもより多めにリクライニングを倒す。

ひととおり窓際を楽しんだら、空の弁当箱を置き、ビールだけ持って別の車両にふらふらと遊びに行ってみる。適当な席に座って、だらだらする。トンネルを通過するとびゅうびゅう音がなる。そのまま寝てしまう。新幹線は走り続ける......素晴らしい夜……

 

貸切って、いくらかかるんだろう?

 

冬のコートのポケットのこと

そして2018年が朝日とともにうっすらと住宅街を覆いました。1月1日です。おせちを食べ、冬の霜、ビールを飲み、風が吹き、鍋をつつき、土が乾いて、夕方が去り夜がきていました。

 

冬が好きな理由のひとつとして、冬服を着られるというものがあります。カシミアのマフラー、あるいはガンクラブチェックのロングコート、ブラウンのコーデュロイのパンツ、ペッカリーのグローブ、アザミのトゲで起毛させたセーター。中でも好きなものはやっぱりコートで、そのなかでも、コートのフードとポケットが好きです。

 

コートのポケットというのは、大抵あたたまっています。手を突っ込むと、ふんわりとしたぬくもりがある。しかも都合のいいことに、岩波文庫が一冊入るときている。冬の乾燥した日に、ポケットにひとつお気に入りの文庫本を突っ込んで街を歩くというのは、それはいい気分だと思う。

 

街を歩いていて、寒さから縮こまった肩や、下を向きがちな顔をただして、ふと周りを見ていると、どこもかしこもコートの群れです。メルトンのコート、ダウンジャケット、寒冷地仕様のマウンテンパーカや、分厚いブルゾン、軽やかなカシミア。街を歩く老いも若いも、そのひとり一人、それぞれのコートのポケットが、等しく、遍く、やんわりとあたたかい。おそらくあそこで歩いている老人の、あるいは仲むつまじげなカップルの、主婦の、学生の、子供の、ポケットはみなあたたかい。そう思うと、人間は平等であって、みんな根源的には同じものだろうという気がなんとなくしてくる。1月1日という日がそうさせるのか、あるいは冬のコートに魔力が宿っているのかはわからないけれど、あたりまえのことをふと意識して世間を見ると、そういう気持ちになってくるものです。

今年もよろしくお願いします。

軽石のこと

石を愛でていた。小学生の時だった。

 

子供のころは、誰しもお気に入りの宝物を持っていたと思う。大人の目から見ると、それはつまらないものだったり、あるいはゴミと紙一重のものだったりするけれども。

僕の持っていた宝物のひとつに、軽石があった。多孔質の、白っぽく、丸い、小鳥の頭ほどの石。どこで見つけていたかは覚えていないけど、僕はこれを拾ってきて、だいじに引き出しに入れていた。

 

平日、学校から帰ってきて運よく親が留守だったりすると、僕は軽石で遊んだ。それは一人でないとてきない儀式のようなものだった。

まず洗面所のシンクに栓をして水を貯める。水がたまったら、水面にそっと軽石を置く。軽石はぷかぷかと水に浮くのだ。しばらくそれを眺めたり、手で無理やりに沈めたり、波を起こしたりしていた。「石が浮く」という矛盾した現象、誰もいない部屋と浴室、平日の午後の風の声、ペールブルーの水のたまった洗面台......いろいろなものが重なって、非日常を感じる、不思議な感覚があった。

その遊びに満足すると、僕は洗面台の栓を抜き、水を吸って少しグレーになった軽石をタオルで拭いてやり、またそっと引き出しに戻す。

 

子供のころは知らなかった。海底火山の噴火でできた軽石は、海を漂流して浜に流れ着くそうだ。広大な海を旅する軽石と、小さな洗面台の中で静かに浮く軽石の、その偶然に一致に少し驚いた。

その後、僕も「宝物」を大事にする年齢ではなくなり、度重なる引っ越しもあって、大事にしていたあの軽石がどこにいってしまったか、今はもう分からない。海に戻してやればよかった。

祖父への贈り物のこと

祖父にブルーレイレコーダーを贈った。今まで使っていたものが壊れておじいちゃんが困っていると母から聞いたから。

ドラマが好きだが夜9時には床についてしまう祖父にとって、レコーダーはまさしく必需品だった。病を患って、歩くことが年々難しくなっている祖父には、好きな番組を録画して次の日に観るというのは大変な楽しみなのだ。

 

特に祖父母にはレコーダーを贈るとは伝えず、黙ってネットで注文していたので、彼らは突然の配送物に驚いたようであった。夜、電話がかかってきた。

 

ほがらかな祖母の声。ありがとう、こんなによくしてもらって、本当に悪いなあと。最初は元気の良いいつもの祖母だったが、しだいに声がしっとりとしてくる。まさかそんなことしてもらえるなんて思てへんかったから……。ありがとうね。本当にうれしいわ。ついで受話器は祖父に移された。おうおう、といつもの祖父の、ゆっくりとした声。元気にしてるか、寒いから気つけや、と言われて、それから、ありがとうな、こんな高いものしてもろて、と、お礼を述べられる。いつも通り言葉数の少ない祖父だが、とても喜んでいることが伝わってきた。本当にありがとな、という声とともに、また電話は祖母に戻された。おとうさんは、病気のせいもあって、なかなか言葉がすっと出てこうへんけど、すごく喜んでねえ、ありがとうね、なにもおかえしできないけど……。

 

ひたすら、ありがとうね、ありがとうねと繰り返す祖母、まるで僕は神様か仏様のようだ。祖母の声は涙ぐんでいるのかと思うくらい、揺れていた。本当に喜んでくれているようだった。あるいはうれしさから涙ぐんでいるようだった。今まで人に贈り物をしてきたけれど、ここまで人に喜ばれたのは初めてなのではないかと思った。砂地にじんわりとあたたかな雨が染み込むように、祖母の声が耳を通して、首元のあたりに染み込んで、やわらかいところを固結びにしてくる。なぜか僕の目もうるうるとしていた。なぜだかは分からない。祖父母はいつからだろうか、喜んでいるときの声にも、憂いを帯びるようになった。やわらかい覚悟というか、自分はもう長くないと、ゆるやかな確信を持っているのだと感じるときがある。そしてそれは僕もそうなのだ、祖母はよく「棺桶に片足つっこんでるから」と冗談めかしていう、祖父はおだかやかな笑みを浮かべながら「おじいちゃんはもう長くないから」と言う、祖父母の寿命について、ものすごく弱い、しかし芯のある、かしいだ柳のような力を以って頭の無意識の部分に刷り込ませてくる。年はとっているが声量は決して弱くないし、滑舌だって悪くないのに、祖父母の声にはなぜか、乾いた風に吹かれる綿毛のような、冬の砂浜にぽつんと残された石のような、頼りなく、はかない感じがある。だから、喜びを伝えるお礼の電話なのに、どこか物寂しさが漂っている。そんな声だから、とてつもなくうれしい気持ちと一緒にふしぎと胸が締め付けられる感じがする。ありがとう、うれしい!と感嘆符をつけるような、歯切れのいい、簡潔なお礼を言って電話を切ってくれればいいのに。ありがとう、ありがとうと繰り返す祖母、寡黙だがゆったりとした深い笑みをたたえる祖父、あの声や顔の、幸福と憂いが混じった湖面のような空気はなんなのだろう、なぜ僕はうれしいのにさみしい気持ちになるのか、なぜつらい気持ちになるのか、なぜ心細い気持ちになるのか。